
ゆっくりと流れる現実に written by ナツメグ
川沿いの真っ直ぐに延びる道を歩いていた。
刺すような朝の光が、僕の視界をかえって遮る。
目をこすりながらも僕は,そこでようやく朝が来たことを自覚する。
かじかむ手をポケットに突っ込んで、俯いて歩いていた僕の目の前に
あらわれたのは、古い教会。
どこかでみたことのある石の壁。見上げると尖塔に。
つばめのような黒い鳥が,優雅に切っ先をかすめてゆく。
少し散歩をするつもりで歩いていたんだけど、
どうやら知ってる道を少し外してしまったらしい。
道の名前を確かめる。聴いたことある名前だが、すぐに出てこない。
真っ直ぐ行けば地下鉄の駅だということは感覚でわかるし、
川沿いをこの方向に行けば,必ずポンヌフに出るのもわかってる。
でも僕は、偶然の迷子人としての自分の姿がなんだか可笑しくて、
気の向くままにもうすこしだけ散歩してみようと思った。
朝日が綺麗だし、空気は冷たくて頭が冴えるから。
新しい一日の始まり。
そんな時間にこんなところを歩いている自分が奇妙な感じだ。
ただ、昨日だってじゅうぶん『常識はずれ』な一日だったから。
今さら何があっても,驚く気がしない。
*****
昨日。
千秋君の家で勉強と鍋をするからと恵ちゃんに誘われたので、
アナリーゼの用意とオーボエ一式と、葱とマロニーと柚胡椒を持って
二人のアパルトマンに行ったのが午後半ば。
ピアノを借りて室内楽や試験の曲の勉強をして、アナリーゼをやった。
やってるうちにひとり、ふたり、アパルトマンの面々が増えていき、
熱い討論で・・・討論だけじゃなくていろいろだけど、
千秋君の部屋は熱気に包まれた。
湯気まで出てきたすごい・・・と思ったら、大きな鍋が机の上に。
気付けば千秋君が、渋々といった表情なのに、
しっかりごはんの支度をしてくれていて・・・。
オーケストラでの「練習」風景もそれは賑やかなものだけど、
オーケストラの「一部」ではない、ピアノ科の彼らが、
まるでそれぞれの楽器のパートを演じるように、わいわいと
鍋をつついたり音楽の話をしたり愚痴を言ったり笑ったり、
そういう光景は、僕にはとても新鮮で、その場に居合わせていることが、
ものすごくふしぎだった。
それからのことは、輪郭しか覚えていない。
フランクとブラームス交響曲一番のアナリーゼで討論して盛り上がり、
気付けば千秋君が加わってて、そこにお酒が入って・・・
ターニャが怒ったような呆れたような顔で何かを行ってた。
(男はこれだから・・・とかなんとか)
恵ちゃんはずっとピアノを弾いていて、五月蝿いとユンロンに怒られる。
ワインの栓が開けられ、缶詰の蓋が開き、コップがテーブルに並び。
ブラームス、ドビュッシー、シューマン・バッハ、ワーグナー。
誰かが,タンホイザーの序曲を、ゆったりとしたテンポでピアノで弾いて、
部屋が一瞬静寂に包まれる。
未だに飲み慣れず酔いが掴みにくいワインを飲み過ぎた僕の意識は、
そこでぷつりと途切れた。
ゆっくりと、弦の音が、その序曲を奏でているような幻聴で、目を覚ます。
それが夢だったのか,本物の音なのか、考えながら起き上がり、
自分の状況・・・現実の自分を、闇の中からつかみ取るように思い出す。
僕のいたソファーの廻りに、死屍累々と床に思い思いの毛布に包まって眠る、
若いピアニスト達。
ユンロンは胎児のように丸まり、フランクはツタンカーメンの如く、
真っ直ぐからだを伸ばしたまま微動だにしない。
いつのまにかきていたポールはその性格から想像できるように豪快に大の字で。
恵ちゃんとターニャは家に帰ったみたいだ。
考えてみればフランクもユンロンも同じアパートなのに、
どうしてここで寝てるんだろう?
ぼんやりと二人を見てそう感じながら、起き上がる。
そのとき気付いた。
ショッキングピンク(たしかそういう名前のピンクだった。
眩しくて目が痛くなるようなピンク)にクリーム色の水玉をした、
すごい色のフリースラグが、ぽろりと床に落ちた。
誰かが掛けてくれたのか。慌てて拾う。
「だれか」なんて・・・記憶が無くても誰だかわかる。
こんな目に痛いショッキングピンクを好んで持ってそうなのは・・・
僕はソファーを独り占めしてしまった軽い罪悪感を抱きつつ、
起こさないようにゆっくりと彼らをすり抜けて洗面所へ行く。
冷水で顔を洗い、リード製作用にいつも持ち歩いているナイフで、
軽くひげを剃る。ひどい顔だけどそんなに疲れているようには見えない。
そう表情を引き締めて,持っていた手ぬぐいで,顔を拭く。
まだ、頭のどこかが夜を欲しているが、眠気を頭を振ってはらいながら、
濡れてしまった前髪を拭う。深呼吸と伸びを一緒にする。
その瞬間僕は、着ていたシャツの胸ポケットに、何かが入っているのに気付く。
「大人なんだから寝る時くらい何か掛けなさいよ。風邪引くわよ、バカ。
タチヤーナ=ヴィシニョーワ」
言葉遣いがぶっきらぼうなのに字が丁寧で。
バカ,なんて書いてあるのに、署名は略称じゃない。
彼女の,これを書く時の顔を想像して吹き出しそうになる。
今度会ったとき、また怒られそうだな・・・もしくは感謝しろ、とか言われる?
部屋に足を忍ばせて戻り、ラグを・・・少し考えたあと丁寧にたたんで
ソファーの上に置いた。机にあった楽譜の切れ端(誰かが破った?
たぶん議論が最終段階に鳴った時点だと思うけど・・・)に、
ゆっくりと言葉を考えながら、ペンを進める。
深夜とも早朝とも言える時間なのに、何故僕は手紙なんかを書いてるのか。
自分の状況に可笑しみを感じつつも、丁寧にたたんでラグの上に。
オーボエのケースを肩に。
たぶん恵ちゃんがこぼしたのであろうプリごろ太のスナック菓子を
拾ってゴミ箱に。おまけステッカーも落ちてたので机の上に。
ユンロンがうなされながら足をバタバタさせている。
ポールが気付けば華麗なローリングでユンロンの上に。
可哀想だけどポールを起こすのが面倒なので、
そのまま部屋を抜け出る。
この部屋の主は、枕を抱いてうつ伏せで眠っている。
動かない。
昨日たぶんオケの事務所で疲れて帰ってきて、おまけに食事の支度まで・・・
仕方がないな、という表情の彼を思い出して,僕はため息をつくと同時に、
声を出して笑ってしまうのを堪えつつ,さっき一緒に書いた置き手紙を机に。
足音を立てないように気をつけながら、そっと扉を開ける。
「先輩は、ああゆう顔してるくせに、実はみんなにごはん作ったりするの、
けっこう好きなんですよ。」
この勉強会が千秋君の負担になってるんじゃないか、と心配した僕に、
恵ちゃんが昨日囁いた台詞。
「部屋に行くと、もう来んな、とか減らず口叩くくせに、
たとえばろーかで会って、そのまま部屋に戻ろうとすると、
先輩、何も言わないけど子犬みたいな目になって・・・」
にやにやしながら、恵ちゃんは千秋君を見てそう言った。
「あと、食材はけっこうみんなが来ることを予想して買ってるよーな
気がするんですよネ。買いだめにしては買い過ぎだと思いマス。
自分ひとりだとサラダとか簡単なものしか食べないもん。」
思えば彼には何の断りもいれていないのに、大人数分の鍋の用意が
できているのも、不思議だと思ってた。
おそらく恵ちゃんの観察眼は正しいんだろう。
みんなで食べる食事は、美味しいですからね。
先輩も、きっとそれをわかってるんですよ。
黒木くんも、みんなで食べた方が美味しいと思いませんか?
ワインを1杯飲んで上機嫌な恵ちゃんの言葉を、
今更ながらに思い出し、口角が上がる。
毎日遅くに帰宅して、ひとりでリード作りながらパンを齧るのが、
つらいとか淋しいとか、口に出したりすることはなかったとしても。
千秋君は、そういう皆の気持ちを、なんとなく感じ取っているから
そんなにも寛大なんだろうか。
恵ちゃんは、皆のそういう様子を汲み取って、あとで怒られるのを承知で
皆があつまるようなことをするんだろうか。
深く考え過ぎかもしれないけど、寝返りを打った彼の寝顔を見て、
そんなことをぼんやりと感じながら、そっと扉を閉めた。
******
川面に朝日が反射して、キラキラと輝く。
眩しいと目を逸らすと、先ほどの黒い鳥が川縁に停まってるのが見える。
ワインのせいで頭が重い気がするけれど、
朝の冷たい空気に瞼までもが吃驚したように目が開いてしまい、
二日酔いのような憂鬱はない。
モーニングを食べてもいいな、と珍しく思う。
ひとりでカフェに入るのはあまり好きじゃないはずなのに。
何かを配達するバイクが猛スピードで車道を駆けてゆく。
紐に繋がれたブルドッグが、憂鬱そうに反対側の歩道を歩いてる。
犬の吐く息は、綿飴のように白い。
肌寒さを感じて、僕は襟を立てる。
日本よりは寒いけど、僕はたしかこの時期が好きだった。
少し寒くて、でも「冬」とはまだ呼べない季節。
なにかあった気がするけど、よく思い出せない。
でも、とにかく毎年この時期が来るのを待ってたんだ。
何か忘れてる気がするけど・・・何だっけ・・・?
朝日が眩しい。
誰かが走ってるのが見える。
コーヒーを飲みたいな、と思った。熱いできたての、コーヒーを。
エスプレッソじゃなくて、日本で「コーヒー」って言ったら
出てくるあれ。「アメリカン」で通じるかな・・・無理か。
この時間でも開いてるカフェは、あるだろうか。
ゆっくり、周りを見回した時に、見えたもの。
遠くの影が、なんだか慌てた様子でこちらに手を振ってる。
跳ねた髪の毛。黒い。
東洋人・・・・というか日本人かアレ?
って・・・千秋君?!
「黒木くん、待って!」
Tシャツに昨日のズボン(違うかもしれないけど同じに見える)、
簡単なジャケットを羽織っただけの千秋君が慌てた様子で走ってくる。
寒そうだな、とまだ酒が抜けてない僕はそう思いながら、
ぼんやりと彼を見ていたが。
「まさか、帰っちゃうとは思わなくて・・・」
「え・・・だってもう、朝だし」
「置き手紙って黒木くんらしかったけど・・・でも今日は・・・」
「今日・・・?」
何か忘れてるんだやっぱり僕は。・・・何だっけ?
「マルレの練習あったっけ・・・ごめん僕忘れてた」
「イヤ違う、そうじゃない」
「えっと、ヤキトリオ・・・?」
「違いマス」
気付くと千秋君の隣には恵ちゃんの姿が。
「うーん・・・誰かの誕生日だっけ・・・」
「なんで気付かないのよ」
ノーメイクのターニャが仁王立ちで目の前にいる。
手にはあの派手すぎるブランケットを持って。
「バカ。なんで帰っちゃうの!のだめとこっそり準備してたのに!」
「お楽しみはこれからだったのに、気付くと黒木くんいなくてビックリです。
監視係として先輩を玄関前に配置してたのに、役に立たないし・・・」
「うるせー。疲れてたんだ俺は。」
「あんだけワイン飲ませても次の日早朝に目覚めるんですね、流石デス」
「え・・・」
何やら仕組まれてたらしい。飲ませた・・・?
千秋君を見ると、ため息をつく。雲のような白い息が出る。
僕を見て、首を傾げる。
「まだ・・・気付かない?」
千秋君は煙草をふかす。煙が風のせいで斜めに流れてゆく。狼煙のように。
恵ちゃんはよく見るとエプロン姿で、クリームのついたへらを持ってる。
ターニャのあきれ顔。
「だから、まわりくどい作戦なんてしなきゃよかったのよ。」
「一日の最初から祝いたい、とか計画したのは、誰だ・・・?」
「だって・・・ターニャがホントはやりたそうなのに意地はるから・・・
早い方がいいと思ったんデス!」
「ばっか!私のことなんてどうでもいいし、そんなことないんだから!」
三人が何やら揉めている。
もしかして・・・ひょっとして・・・
ふと思いついたことを、言っていいのか言ったら恥ずかしいのか。
考えあぐねて僕は、言葉を出せない。
「おい、黒木くん本人に説明しなくていいのか?」
「あ、そだった」
「んもう、ヤスもヤスよ。まだ気付かないの?」
ターニャが僕を睨む。
何か言おうとしたけど、口がかじかんだ気がして、うまく開かないけど。
「もしかして・・・僕の?」
「決まってるじゃないですか。さあ、部屋には美味しいケーキがありますよ!
朝からケーキ!最高のシチュエーションです!」恵ちゃんが笑う。
「それはおまえだけ・・・
黒木くん、昨日は前夜祭、てことらしかったんだ。
誰も何も言わないようにしてたから、あれじゃ気付かないよな」
千秋君が苦笑する。
「寒いから早く戻るわよ。んー、なんか顔青いわ。寒いの?
・・・ハイ」
ターニャが駆け寄って、あの派手なブランケットを僕の肩にかけた。
ターニャの方を見ると、睨み返された。
「趣味が悪い、とか言うんでしょ?」
「いや・・・確かに目がチカチカするんだけど・・・でも」
「でも?」
「温かいよ。ありがとう」
冷たい空気が邪魔をして、うまく笑いかけられずに、
中途半端に口の端を上げた表情で、僕は彼女のことを見てるんだろうな。
ターニャはひとこと、ヘンな顔、と言って、ようやく笑った。
「ターニャもいろいろ言うけど、やっぱり優しいんですよ。
そういうとこ、ちょっと千秋先輩に似てませんか?」
帰り道。作る料理の相談をしている千秋君とターニャの後ろで、
恵ちゃんは僕にそっと囁いた。
そうだね。二人とも、優しい。すごいことだとおもう。
僕は彼女に、そう囁いた。
恵ちゃんは、そんな二人が近くにいて自分は幸せだ、と笑った。
「少しは、ふたりに対して、なにかできるといいと思うよ」
「そですね。もらってばっかりじゃ不公平ですもんね。
のだめももう24歳だし、今年はもうちょっとまわりのことをみよっと」
「僕も」
何のことを言われているかわからないふたりは、少し怪訝な顔をしてたな。
自分のことが精一杯で。自分のこともおぼつかない日々だから。
ちょとしたことで人に気にかけることができる人を、僕は尊敬する。
またひとつ年をとる。ひとつの、ちいさいけど指標ができる。
そう言うものの積み重ねで、自分が変わっていくのかな。
飛行機みたいに頭上をゆっくり旋回する鳥を眺めながら、ふとそう思った。
Fin
ハピバスデー黒木!
「自分」というものをしっかり持っていながらも、
柔軟に環境を受け止めて進化できる彼が大好きデス。
2006/11/12 ナツメグ
ナツメグさんのHP:Reverie
いつも読ませていただくと思いますが、大人数が登場する話が本当に上手です。ターニャの使い方も素敵!
ナツメグさん、ありがとうございました!
